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婦人民主クラブの誕生1945年8月15日、おおくの国民に犠牲を強いた悪夢のような侵略戦争は終わりました。 この日から日本国民は、ファシズムの日本から平和と民主主義の日本建設へと歩みはじめました。 とくに長い侵略戦争に耐えてきた日本の婦人たちの解放をねがう声は次第に高まり、社会的な動きとなってきました。 こうしたなかで、婦人民主クラブは作家の宮本百合子さんたちによって、戦後いちはやく準備され、もう二度とふたたび悲惨な戦争にまきこまれたくないという婦人たちの願いをこめて、1946年(昭和21年)3月16日に誕生しました。 次の「成立にあたって」及び「創立の趣意書」は、クラブの発足が準備される段階で発表されたものですが、単に宮本百合子さんの一世一代の名文というだけでなく、婦人民主クラブ創立の精神が、みずみずしい表現でうたわれており、会員が、クラブ活動のなかで、たえず初心にかえり、深めてゆく内容をもっています。 成立にあたって新しい日本が始まろうとしています。本当にわたしたちの幸福のために、わたしたち自身が考え、選び、行動してゆける時代になりました。一人、一人の生活がきりはなされて、うれしい顔を知っているのはその人の手に持たれた鏡だけ、悲しい涙を知っているのはその人のつつましい枕だけという人生から、わたしたちは希望をもって歩み出そうと思います。 幸福になるためにお互に扶け合いましょう。扶け合うために、みんなのよい意志を集めて一つの力としましょう。そして重い封建の石を私たちの肩からふりすて、日本の明るい民主的社会を招来させ、もう二度と戦争のない、生活の安定と向上との約束された未来をわたしたちのものとしましょう。 婦人民主クラブはあらゆる層の婦人が、うれしさも努力も向上心も互にわけ合って育ててゆく日本唯一のクラブとして発足しました。 婦人民主クラブ創立趣意書(要約)私たちは、婦人の生活上の力量が、この社会のより幸福な組み立てのために、どれはどの重大な価値を持っているかを自覚しなければなりません。生きることを心から愛する私たち日本の婦人、努力をおしまず、平和と幸福との社会的な保証を熱望する私たち日本婦人は、希望を実現してゆく方法を学び、その忍耐強さに最後の輝きを添える社会的な積極性を身につけようと願っております。 婦人民主クラブは、そういう希望の婦人たちの集まりとして創立されます。最初の発端は数人の間でまとめられたにしろ、これは日本全国のすべての婦人たちのものです。日本全国のすべての婦人が、その苦痛の解決のために、希望の具体化のために、よろこばしい諸成果をともどもに愉しむために、生き生きと運営してゆくべき組織の一つです。確乎として正しく明るく、そして温かいこの社会の世論の一つの源泉ともなりたいものです。婦人民主グラブは、果てしない未来をもって、幾千万の日本婦人の善意の海の上に船出いたします。 宮本百合子起草、1946年1月25日準備会決定 平和を願い、戦争に反対して…戦禍の中から生まれた婦人民主クラブが最初にとりくんだ活動は、住む家も着るものも食べるものもなく焦土に放り出された家族をかかえた主婦たちの先頭に立って、「くさらぬイモを、もっと麦を米を」という要求をもって官庁に出かけたり、灯のつかぬまっくらな家に配電を要求して占領軍の司令部に直接交渉するなど、生活を守る活動からはじまりました。 また内職の世話や指導、各地の災害のたびの救援、次から次に上がる物価引き下げの運動にも、婦人民主クラブは精力的に働きました。これは戦後はじめて婦人が切りひらいた生活を守るための、新鮮な活動の一つでした。 とくに、もう二度とふたたび悲惨な戦争にまきこまれたくないという婦人たちの願いを集めて誕生した婦人民主クラブは、"平和"をおびやかすどんな動きにも敏感でした。ビキニ被災を契機にまきおこった原水爆禁止運動や、核兵器から子どもを守る母親運動で、婦人民主クラブは中心的な役割を果たしました。その活動は、いまもなおつづいています。 基地拡張反対、警職法や政暴法などの治安立法反対、さらに1960年の安保条約反対のあの大きな国民運動には、国会をとりまくデモに毎日のように婦人民主クラブの旗をなびかせました。 アメリカのベトナム侵略の戦火に、私たちは怒りをこめて、「ベトナムの子どもに学用品を送ろう」という支援活動にもとりくみました。 婦人民主クラブは、家庭の主婦とか働く婦人とかのちがいはあれ、母として、働く婦人として、また市民としての権利がしっかり確立される条件をつくろうという立場に立っています。生活の問題、子どもの教育、差別撤廃、母性保護、そして世界の平和、女として、母として、一人ひとりの要求は多種多様ですが、婦人民主クラブに足場をおいて、それぞれの要求をみんなの共通の問題として力をあわせ、社会的に解決していこうと しています 。 婦人民主クラブの支部は、全国にちらばっています。その支部の活動は、それぞれの地域によってのちがいはありますが、料理の講習会や手芸の講習会、学習会、読書会、時には旅行や観劇などもたのしみます 。 またPTAや生協活動、食品や環境公害に反対する運動などさまざまですが、これらの要求実現のために、選挙ではわたしたちの要求実現のために働いてくれる代表を議会に送り出すための活動にもとりくみます。核兵器廃絶など、全国的に統一した大きな運動は婦人民主クラブとしてとりくみます。 こんにち、母親運動などにみられるめざましい婦人の活動、またその自覚のたかまり、民主的な連帯意識などは、戦後から今日まで一貫した婦人民主クラブの真剣な活動が、あるいは種をまき、あるいは根を張った、といえるかもしれません。 戦後民主主義を守って…長い歴史をもつ婦人民主クラブには、さまざまな考え方をする会員がいました。婦人民主クラブが誕生して25年を経た1970(昭和45)年のことです。当時、学生運動から端を発した暴力的・破壊的過激派(革マルや中核、日本赤軍など) グループの台頭がありました。 婦人民主クラブの中には、こうした過激派を支持する一部幹部がおり、彼女たちの扇動によって、第24回大会(1970年6月6、7日)では一方的に、22の支部の解散とその支部の支部長、中央委員及び支部代議員を、バリケードを張って大会出席を拒否し、不当にも除名するという乱暴な決定が強行されました。その上彼女たちは、「婦人民主クラブ」「婦人民主新聞」の名称を暴力的に私たちの手から奪いとってしまいました。 婦人民主クラブ25年の歴史上、規約を無視したこのような民主主義破壊の暴挙はかつてないことでした。 婦人の幸せのため、何よりも大切に民主主義を守り育ててきた婦人民主クラブを建て直すことは、戦後民主主義を守ることを意味しました。そのため「これまで以上に婦人民主クラブの活動を積極的にそれぞれの地域ですすめよう」と、1970年6月28日、全国から22の支部が集まり婦人民主クラブ再建連絡会を発足させました。 再建連絡会は事務所もなく、鉛筆一本から会員が持ちよっての出発でしたが、国家権力による民主主義の否定をみすごしたためにあの不幸な戦争の痛手をこうむったにがい教訓をもつ私たちは、平和と民主主義を守るためにはどんな困難な道であろうとのりこえて進もうと、その決意は非常に固いものでした。 とくに婦人民主クラブは、民主主義を大切に育てることを目的としており、二十四回大会の暴挙による民主主義否定を容認することは、婦人民主クラブそのものを否定することにつながります。 1986年、再建達成を宣言以来、どんなに時間がかかろうと、一つ一つ話し合い、全体が一歩でも前進する、成長する、一方の意見だけをおしつけない、そういう婦人民主クラブをめざす活動を積みあげ、1986年10月26日、再建達成を宣言する全国大会を開催することができました。 規約も整え、名称も連絡会ではなく、全国単一の婦人の組織として「婦人民主クラブ(再建)」としました。再建を達成したのになぜ(再建)をつけるのか、という意見もありましたが、わたしたちにとって民主主義と(再建)は同義語であり、16年間の闘いの勲章であるという見解で一致したものです。 暴挙に屈することなく、婦人民主クラブの歴史と伝統を正しく受継いだ会員たちは、婦人民主クラブ(再建)の名の下に、綱領(三つの目的)にそった活動をつづけて来ました。 2006年、「婦人民主クラブ」の名称回復!2006年11月11、12日の全国大会での討議で、名称を取り戻すことを決議し、晴れて「婦人民主クラブ」の名称回復を宣言しました。 婦人民主クラブは、民主的な他団体国際組織とも協力して、平和でゆたかな社会をめざし、女性自身も心ゆたかにみずみずしく生きるために活動をしています。 婦人民主クラブは、全国に支部があり、女性であれば、思想・信条をこえて誰でも参加できます。支部の楽しい行事や学習、生活の要求に根ざした活動は、女性の能力を開花させ、新しい生きがいを発見させてくれます。 婦人の力量が、平和な日本の建設にどれほど大きな価値をもっているかを、小さなささやかな活動の中で自覚できるような、そういう婦人民主クラブの活動でありたいと願っています。 |
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